『貞丈雑記(ていじょうざっき)』には 「菓子は、蒸菓子や干菓子のことではなく、 果物を菓子という」と書かれている。
また、『和名抄(わみょうしょう)』にも 梅は木の実・果物に分類され、 奈良時代の人々は、桃・ビワ・ナシなどと 共に梅を生菓子として食べていた。
日本最古の医学書『医心方』は、 平安中期の医師、丹波康頼(たんばのやすより)が 984(永観2)年に著したもので、 六朝(りくちょう)・隋(ずい)・唐(とう)時代の 中国や朝鮮の医薬書から引用し、 医学全般にわたって説かれた本だ。
この文献の中に、 「梅干」の効用がとりあげられている。
武家社会のもてなしは、 「椀飯(おうばん)」と呼ばれ、 クラゲ・打ちアワビなどに、 梅干や酢・塩が添えられた ご馳走だった。
兵士の出陣や、凱旋(がいせん)時に 縁起(えんぎ)がいい食物として 用いられた。
江戸時代に著された『雑兵(ぞうひょう)物語』には、 戦に明け暮れる武士は、 食料袋に「梅干丸(うめぼしがん)」を 常に携帯(けいたい)していたと書かれている。
梅干の果肉と米の粉、氷砂糖の粉末を練ったもので 激しい戦闘や長い行軍での息切れを調えたり、 生水を飲んだ時の殺菌用にとおおいに 役立った。また、梅干のスッパさを思い、 口にたまるツバで喉の渇きを癒(いや)したそうだ。
江戸庶民の梅干を食べる習慣が、 全国に広がるにつれ、 梅干の需要はますます多くなった。
紀州の梅干は「田辺印(たなべじるし)」 として、特に評判を呼び、 田辺・南部周辺の梅が樽詰めされ、 江戸に向け、田辺港から 盛んに出荷された。
一部の人しか食べられていなかった梅干も、 江戸時代になると庶民の家庭にも 登場するようになる。
江戸では大晦日や節分の夜、 梅干に熱いお茶を注いだ「福茶(ふくちゃ)」を飲み、 正月には、黒豆と梅干のおせち 「喰い積み(くいづみ)」を祝儀物として食べた。
明治11年、和歌山でコレラが発生し、 翌年にかけ1768人の死者が出た。 この時、梅干の殺菌力が見直され需要が急増した。
また日清(にっしん)戦争の頃、 軍医の築田多吉(つきだたきち)が、 外地で伝染病にかかった兵士に 梅肉(ばいにく)エキスを与えて完治させ、 梅干の薬効を実践した。