なんでも梅学

仁徳朝に「咲くやこの花」

日本最古の漢詩集『懐風藻』(天平勝宝3年(751)成立)よりも、文献として成立した年代は遅れるが、 詩の詠まれた年代は『懐風藻』より古いとされているのが『古今和歌集・仮名序』。
その一節に、この短歌がある。

難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花

「難波津(なにはづ)に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」

王仁(わに)『古今集仮名序』

【通釈】難波津に、咲いたよこの花が。冬の間は籠っていて、
今はもう春になったので、咲いたよこの花が。

  • 難波津・・難波の港。難波は大阪市及びその付近の古称。
  • この花・・「梅の花」を意味する。古今集仮名序に添えられた古注では、
    編者の紀貫之が「梅の花を言ふなるべし」と注釈している。

【由来】仁徳天皇が皇位につかれた事を喜んで、渡来した百済(くだら)の王仁(わに)博士が、 梅花にこの和歌を添えて、奉ったと伝えられている。

「難波津の歌は、帝の御初め也。おほさざきの帝(※)の難波津にて皇子ときこえける時、 東宮をたがひに譲りて、位につき給はで、三年になりにければ、王仁といふ人のいぶかり思ひてよみて奉りける歌也・・・」(古今集仮名序より)

※「おほさざきの帝」とは、仁徳天皇(在位313~399)のこと。
仁徳天皇が最初に和歌(短歌)を詠まれたのが難波高津宮で、それが和歌の始まりだという。
仁徳天皇が皇位につくまで、数年間は皇位が決まらず、民も荒れたが、
仁徳天皇が難波に都を定め、農業の推奨、開拓事業などの便をはかり、大和朝廷の最盛期となった。

【王仁】往古王仁(わに)。古事記には和邇吉師(わにきし)とある。

応神十六年、百済(くだら)より来朝。『論語』『千字文』を伝来した渡来人。
日本に漢字を伝えたと云われている。

参考文献:「梅一・ものと人間の文化史」有岡利幸

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