なんでも梅学

梅にまつわる年表

西暦 年号 梅に関する事柄




中国・唐の時代は「梅の時代」と言われ、杜甫(とほ)や李白(りはく)が、盛んに「梅」にちなんだ漢詩を詠んだ。
和歌山の海草郡浜中荘丁村は「梅の名所」として紀伊名所図会にあり、丁(よぼろ)は「養老梅(ようろううめ)」の語源となっている。


日本最古の歌集『万葉集』、日本最古の漢詩集『懐風藻(かいふうそう)』に梅の歌があり、中国伝来の梅に影響を受けていた様子が伺える。
『箋註倭名類聚抄(せんちゅうわみょうるいしゅうしょう)』に、「皇国古くは梅なし、ゆえに【古事記】【日本書紀】に皆是物なし、後に西土より之を致す」と記載。
730 天平2 太宰府(だざいふ)・大伴旅人(おおとものたびと)邸で梅花の宴が催され、山上憶良(やまのうえのおくら)が「春されば まづ咲く宿の梅の花 独りみつつや春日暮さむ」と歌を詠んだ。
751 天平勝宝 『懐風藻』に葛野王(かどののおおきみ)の「春日、鴬梅(おうばい)を翫(はや)す」が載っており、太宰府から都へ梅が移植された事が考えられる。


845 承和12 『続後紀(ぞくこうき)』に「紫宸殿(ししんでん)の前庭に梅が植えられていた」と記載。
『古事談(こじだん)』六に「南殿(なんでん)の桜樹(おうじゅ)はもと是れ梅樹(ばいじゅ)なり」と記載。
874 貞観16 『三代実録(さんだいじつろく)』に「東宮(とうぐう)の紅梅(こうばい)」と記載されており、9世紀半ばに紅梅が渡来したと思われる。
901 延喜1 菅原道真(すがわらのみちざね)が、飛梅(とびうめ)伝説を生んだ「東風吹(こちふ)かば 匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」を詠う。
918頃 承平年間
18頃
『本草和名(ほんそうわみょう)』にウメが牟女(むめ)と記載。
『和名抄(わみょうしょう)』にウメが宇女(うめ)と記載。
960 天徳4 都に悪疫(あくえき)が流行り、村上天皇(926~967年)の病気が、梅干とコンブの茶で回復したと伝えられる。
984 永観2 日本最古の医学書『医心方(いしんほう)』に梅干が記載。

1214 健保2 禅僧・栄西(えいさい)が『喫茶養生記(きっさようじょうき)』で茶の効能を説き、この頃の僧が茶菓子として梅干を供した。
『世俗立要集(せぞくりつようしゅう)』に「梅干ハ僧家ノ肴(そうけのさかな)」と記載。

『食物服用之巻(しょくもつふくようのまき)』に「梅干は口に酢がたまるので、人の前で物にむせない」と記載。
『今川大双紙(いまがわだいそうし)』に「梅干をみれば口の中に唾液(だえき)が出て物にむせない」と記載。

この頃、戦国大名の黒田如水(くろだじょすい)は、「男の子が生まれたら梅三株を植えよ」とのお触れを家臣(かしん)に出した。



1619 元和5 徳川頼宣(よりのぶ)が紀伊藩主になり、まもなく安藤直次(なおつぐ)による、やぶ梅栽培の奨励策(しょうれいさく)が始まる。
寛文年間 京都・鹿苑寺(ろくおんじ)の鳳林和尚(ほうりんおしょう)の日記(1661~1673年)に、「紅色(べにいろ)の梅干が珍しい」と記載。梅干にシソが使用され始めたと思われる。
1675 延宝3 この頃『雑兵(ぞうひょう)物語』が成立。梅干が戦場食として活用されたとある。
1689 元禄2 埴田(はねた・現みなべ町)で梅干が作られる。
1692 元禄5 『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』に、シソ染めの梅干が珍重品(ちんちょうひん)であると記載。
1694 元禄7 梅の普及とともに種類も増え『花壇綱目(かだんこうもく)』に53種と記録。
1695 元禄8 『尺素往来(しきそおうらい)』に、菓子として利用と記載されていることから、果樹栽培はこの頃から始まっていたと思われる。
『本朝食鑑』に、豊後梅(ぶんごうめ)が梅の品種として初めて記載。
1696 元禄9 『農業全書(のうぎょうぜんしょ)』に「四五月葉をつみて、梅漬(うめづけ)」とシソについて記載。
1712 正徳2 『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』に、烏梅が「脾(ひ)・肺(はい)二経の血分の薬である」と記載。
小田原城主の大久保忠真(ただざね・1712年頃)は、梅の実を保存食料にする目的で、家臣達に梅の木を植えさせた。
平賀源内(ひらがげんない)の弟子の森島中良(もりしまなから・1756~1810年)は、自書『反古籠(ほごかご)』に「町人の子供が11~12才になれば、商いの修行に冬は梅干を売らす」と記載。
1781 天明元年 『和方一万方(わほういちまんほう)』に、「便血に梅干を黒焼、粉末にして用いる。水虫に梅干、里芋、銅のやすりくずを合わせつける」と記載。
1817 文化14 『諸国古伝秘方(しょこくこでんひほう)』に、「腸炎には、青梅を擦り、搾り汁を天日に干して練り薬にする」と記載。
『経験千万(けいけんせんばん)』に、「出血に梅干の黒焼を紛薬にする」「トゲに梅干の果肉をつける」と記載。
1826 文政9 『紀州田辺領名産品数書上帳』に、田辺・芳養(はや)・南部(みなべ)の梅干が名産品として記載。
1827 文政10 『万代記(まんだいき)』九三巻に、岩代屋六兵衛、南部切目屋惣右衛門(きりめやそうえもん)、埴田(はねた)村土井儀兵衛(ぎへえ)などの商人が、江戸へ梅干を送ったと記載。
水戸藩主の徳川斉昭(なりあき・1842年頃)が『種梅記(しゅばいき)』に梅への想いを記載。
幕末 『古方薬(こほうやく)議』に、烏梅(うばい)が「熱を下げ,下痢や口の乾き、タンを止める」とその効用について記載。
天保年間 埴田(現みなべ町)の浜口松次郎が、販売用梅干の製造を始める。


1873 明治6 微兵令(ちょうへいれい)が発布。施行とともに軍需用に梅干の需要がのびる。
1878 明治10 七月から翌年六月にかけてコレラが大流行し、梅干の需要がのびる。
1886 明治19 内本幸二郎・内中為七が、晩稲(おしね)地区を開墾し、梅を植える。(梅畑経営の始まり)
1892 明治25 日高郡、有田郡で梅栽培が一般に普及。
1893 明治26 南部町の山崎宗二郎(秋芳園・しゅうほうえん)が梅干業を始める。
1901 明治34 内中源蔵が上南部村熊岡の持ち山4haを開墾、梅畑化。梅干の加工場を設ける。
1902 明治35 上南部村晩稲の高田貞楠(さだぐす)が、内中梅の実生苗(みしょうなえ)を植栽する。
1904 明治37 二月に日露戦争が始まり、軍需品として梅干の需要がのびる。「日の丸弁当」は、この頃生まれた言葉で、梅干が庶民に愛されていた様子が伺える。
1905 明治38 『梅花集』に318種の梅が記載。
1910 明治43 尋常(じんじょう)小学校の国語教科書に「梅干の歌」が記載。


1916 大正5 梅干製造に取り組む兼業農家が続出し、南部町・田辺町(現田辺市)では梅干商組合が組織される。
1925 大正14 梅肉エキスの効能が記載された「赤本」が発行される。
1926頃 末頃 南部町の山崎秋芳園が「封じ梅(梅肉紫蘇巻)」を作る。
上南部村徳蔵(とくぞう)の森五郎松が「梅肉エキス」を作る。


1928 昭和3 関西向けドブ漬け始まる。(以前は関東向けの白干梅が中心だった)
1931 昭和6 上南部村筋(すじ)の小山貞一が、高田貞楠より穂木(ほぎ)を譲り受ける。南高の栽培の第一歩となる。
1950 昭和25 上南部村の梅優良母樹(ゆうりょうぼじゅ)調査選定委員会が発足。メンバーは7名。竹中勝太郎委員長(当時南部高校教諭)、谷本勘蔵(当時上南部農協組合長で提唱者)小山貞一、糸川国太郎、中本留吉、中松文太郎、日置文蔵で結成。
    梅優良母樹調査選定委員会が、上南部村内の37品種の優良母樹を調査、選定開始。
1954 昭和29 梅優良母樹調査選定委員会が、更に7品種を選抜。地蔵(じぞう)白玉(しらたま)薬師(やくし)改良内田梅高田梅養青(ようせい)青玉(古城)で、その中でも高田梅が最も優秀な品種と決定。
1955 昭和30 梅優良母樹調査選定委員会が、青玉(古城)を保留。
1962 昭和37 酒税法(しゅぜいほう)改正で、果実酒が自家製造出来ることになり、梅酒用青梅の需要が急増。
1965 昭和40 梅優良母樹調査選定委員会の決定した、最優良品種の高田梅が「南高」として農林省に種苗名称(しゅびょうめいしょう)登録される。(登録番号184号)
1968 昭和43 和歌山県花に梅が決定。
1973 昭和48 南部川村役場に、全国初の「うめ課」を設置。
1974 昭和49 かつお梅の製造開始。
1977 昭和52 味梅(調味梅)の製造開始。
1987 昭和62 南部川の花に梅、鳥にうぐいす、木にウバメガシを制定。

1989 平成元年 南部川村で、2月11日を「梅の日」と制定。
1990 平成2 梅の栽培から加工まで、一貫した試験研究が行われる「南部川村うめ21研究センター」の施設が完成。

このページは南部川村の許可のもと「南部川村うめ振興館常設展示図録」をもとに作成しました

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