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みなべ郷

なんでも梅学

みなべ郷と梅

農園のある和歌山県みなべ町は日本一の梅の里。
なんと全世帯の8割が、なんらかの形で「梅」に携っています。


梅のプロフィール

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梅のプロフィール

ALL ABOUT「梅」
図解版 花から果実への発達
梅の花を解剖してみよう

いろいろな梅の花

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いろいろな梅の花

「梅」の品種は300種以上あると言われる
梅の開花前線@日本列島

梅雨と梅

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梅雨と梅の関係

梅雨は、梅にとって恵みの雨。
この季節に雨が降ることで、梅の実は大きく膨らんでいく。
ところで「梅雨」はなぜ「梅の雨」と書くのだろう?

なんでも梅学

うなぎと梅干し

一緒に食べてはいけないと言われる「食べ合わせ」。
「うなぎと梅干は食べ合わせが悪い」と言われてきた。
さて、本当にこの説は正しいのだろうか?

烏梅(うばい)

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烏梅(うばい)

「烏梅」ってなに?名前の由来
どんな味?なにに効くの?
烏梅について、ありったけ。

梅のことわざ・言い伝え

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ことわざ・言い伝え

「梅」にまつわることわざや
言い伝えは、たくさんあります。
あなたは、いくつ知っていますか?

南高梅のルーツ

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南高梅のルーツ

農園のある和歌山県みなべ町で生まれた「南高梅」は、
現在では押しも押されぬ「梅」の一流ブランド品。
その誕生には、一体どんなドラマが隠されているのかな?

古い梅干し

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「古い梅干し」大集合

日本人と梅干しの由来・梅にまつわる年表
梅干が一般家庭の食卓に並ぶようになったのは江戸時代。

伝統色に息づく梅

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美術の中の「梅」

日本の伝統色にいきづく梅
こんなにあるよ!梅の紋章(家紋)

梅の里みなべ郷と梅

農園のある和歌山県みなべ町は日本一の梅の里。
なんと全世帯の8割が、なんらかの形で「梅」に携っています。
今日は、その始まり~現在に至るまでの、生い立ちを見てみましょう!


梅のはじまり

梅のはじまり

江戸・元和5年(1619年)紀州藩主・徳川頼宣(とくがわよりのぶ)のころ、南部(みなべ)の農民は、あまり米が育たない田畑と重い年貢(ねんぐ)に苦しんでいました。

これを見た南部地方を治める 田辺藩主・安藤帯刀(あんどうたてわき)は、以前からあった「やぶ梅」に注目し、米の出来ないやせ地や、山の斜面に、生命力のある梅を植えさせ、年貢の軽減と、農作物の育成に努めました。

いつしか南部周辺に「やぶ梅」の栽培が広がっていきました。


やぶ梅「紀州田辺印」

やぶ梅「紀州田辺印」

「やぶ梅」は果肉が薄く小粒でしたが農民の生活には大切な品でした。
果肉をこめかみに貼り頭痛を治したり、握り飯に入れたり、その価値は大きいものでした。

やがて梅干は、江戸で人気が出るようになります。
そこで、南部(みなべ)梅の良品なものだけを選び「紀伊田辺産」の焼き印を押した樽(たる)に詰め、江戸へ送られ有名になりました。


「紀伊名所図会」

「紀伊名所図会」

江戸時代、南部の埴田(はねた)では、梅畑が一面に広がり「紀伊名所図会」に紹介されるほど、見事なものでした。

しかし、明治15年頃から盛んになった生糸(きいと)生産のため、梅は桑の木に植え替えられる様になります。

埴田を追われた梅は、やがて晩稲(おしね)熊岡の地で、南部梅林としてよみがえることになります。


「六太夫梅」

「六太夫梅」

晩稲(おしね)に、六太夫(ろくだゆう)という人がいました。やぶ梅の改良を手がけた最初の人物です。
改良された梅は、実が大きく、紅がさして美しい色をしていました。

六太夫梅

しかし干しあげると、種が大きく肉が薄くなるので商品にならず、日の目を見ることなく途絶えました。これが「六太夫梅」です。

「紀伊続風土記」にあるように、当時、花梅は多く知られていましたが、実梅はまだ闇の中でした。


内本梅(南部の梅のルーツ)

内本梅(南部の梅のルーツ)

六太夫のような、実梅の改良に情熱をかける村人達の努力は、まだまだ続きます。

明治12年頃、内本徳松(うちもととくまつ)は、
晩稲で購入した山林に、良種の梅を見つけます。
これを母樹として繁殖させたのが「内本梅」です。

昭和11年には県の天然記念物に指定されました。


梅畑経営の始まり

梅畑経営の始まり

梅干は軍隊の常備食として需要が増えていきました。

晩稲(おしね)でも耕地を広げ、梅作りをする人々が登場します。明治20年頃、内本幸右ヱ門(うちもとこううえもん)が、晩稲に約15アールの土地を開墾し梅を植え、 翌年、内中為七(うちなかためしち)もそれに続きました。(1アール=100平方メートルです)

人々の中傷にもめげず、黙々と梅を植え続け、実梅が育つ夢を見た二人でした。彼らこそ、梅畑経営の先駆者です。


内中源蔵(うちなかげんぞう)の事業

内中源蔵(うちなかげんぞう)の事業

内中為七の長男、源蔵は紺屋(染め物屋)を営む青年実業家でした。時代を読み、梅栽培がよいと判断した源蔵は、明治34年、紺屋を廃業し、私財を投じて熊岡の扇山を買い取り4ヘクタール(400アール)の土地を開墾しました。

その開墾地に、内本徳松が発見した「内本梅」を植えつけました。また加工所を設けて梅の商品化にも着手。若き事業家の強い意志が、村の発展のきっかけとなりました。


南部(みなべ)梅林の基礎

南部(みなべ)梅林の基礎

内本源蔵の事業にならい、晩稲区長・高田久治郎(たかだきゅうじろう)は、農家約200戸に区有林を20アールずつ分配し、開墾と植梅を奨励しました。村は今までの粗放(そほう)栽培から一変、管理栽培になり、梅蔵の数も増えていきました。

明治37年、日露戦争の始まりと共に、軍用としての梅干の需要が急速に伸び、村中に内本源蔵に習う者が増え、晩稲・熊岡の山々に梅林が広がりました。


高田貞楠(たかださだぐす)

高田貞楠(たかださだぐす)

高田貞楠は村長の長男でした。温厚な人柄で家を守り、村を愛する日々を送っていました。
明治35年、自分の所有する約30アールの桑畑に、近所の人から購入した内中梅の実生苗(※)60本を植えました。
(※実生苗(みしょうなえ)=種から発芽させ育てた苗)

その中に豊産で実が大きく、美しい紅がかかる優良種が一本あるのに気がつき、その樹を母樹として大切に育てました
これが南高梅の母樹「高田梅」です。


南高梅の誕生

南高梅の誕生

小山貞一(こやまていいち)は農業経営の成功を夢見る青年でした。 昭和6年のある日、高田貞楠から門外不出の高田梅の穂木60本を譲り受けました。
接木をしても半分も育たないという苦労を克服して栽培を続け、梅畑を広げていきました。

時は流れ昭和25年、村内では大勢の人々が参加した優良品種の梅捜しが始まり、小山貞一も選定委員として活躍します。
この結果「高田梅」が最優秀に選ばれ「南高梅」の名称で種苗名称登録されました。


「一目百万、香り十里」

「一目百万、香り十里」

早春のみなべは、日本一の梅の里にふさわしい見事な風景が見られます。
見晴らしのよい場所に立つと、はるか彼方の山々まで梅の花がおおい、甘酸っぱい香りが辺りの空気を包み込んでいます。

豊かな自然と先人達の努力が育んできたこの「みなべ」の風景は、これからも私達に、春の訪れを知らせてくれることでしょう。

このページは南部川村の許可のもと「南部川村うめ振興館常設展示図録」をもとに作成しました

 

梅の里みなべ町の栽培品種

栽培品種

ひとことで「梅」と言っても、いろいろな品種があります。
農園で栽培しているのは、南高梅8割・受粉樹(小粒南高)2割。
我がみなべ町では、どんなふうなのかな?ちょっと見てみましょう。

みなべ町では「南高梅(なんこううめ)」が栽培面積の約7割を占め、
次いで「古城(ごじろ)」1割、「受粉樹」が2割となっています。
受粉樹(じゅふんじゅ)とは、花粉が多く実梅との相性も良い品種で、
自家受粉できない南高梅などに受粉用として栽培されています。
受粉樹には、小粒南高・西川・白玉・小梅などの品種があります。


南高梅

南高梅(なんこううめ)

花は白色一重で、2月上旬から下旬に開花します。
果実の大きさは、大粒で平均25g~35g。
皮が柔らかく、果肉が厚く、干し梅としては最高級品です。

果実の色は緑色ですが、完熟に近づくにつれ黄色味を増し、日光の当たる所は、鮮やかな紅色に変わります。
青採り・干し梅の両用品種で、和歌山県の南部川村(現みなべ町)が原産地です。

開花後の寒さに強く、豊産性もあるので、
風土に適した最優秀品種と認められ、
県の奨励品種、国の農林種苗登録品種になりました。


古城

古城(ごじろ)

花は白色一重で、開花期はやや遅く、
収穫期は6月上旬から始まります。

果実の大きさは、25g~30gぐらい。
果実の色は緑色で、果肉は厚く、種子は小さく
耐寒性があり、青梅としては一級品です。

和歌山県下で多く栽培されている品種で、
梅酒やジュース用に適しています。


小粒南高

小粒南高(こつぶなんこう)

果実の大きさは、16g~25gぐらいです。

品質は南高梅と同じで、
受粉樹として多く植えられています。

このページは南部川村の許可のもと「南部川村うめ振興館常設展示図録」をもとに作成しました

 

みなべの気候と海流

紀伊水道(きいすいどう)に流れ込む 黒潮(くろしお)の影響を受け、
みなべは、一年を通じて気温の変化が少なく、温暖な気候に恵まれている。

黒潮の影響を受け、温暖な気候

特に、みなべの位地する紀伊半島南部では、降水量が多く、
年間の晴天日数が200日を超え、日照時間も長いことから、
植物の生育に適した気象条件となっている。
このことは、温暖な気候を好む梅の特性に、たいへん適合している。

みなべの位地する紀伊半島南部は降水量が多い 植物の生育に適した気象条件

このページは南部川村の許可のもと「南部川村うめ振興館常設展示図録」をもとに作成しました

 

みなべの土壌と梅栽培

良質で収穫量の多い梅栽培には、中性質で水はけの良い土壌が適している。
また、梅は成長時にカルシウムを多く吸収する。みなべ町に多く見られる
「瓜溪石(うりだにいし)」は、主に炭酸カルシウムからできており、
この炭酸カルシウムを含んだ中性質の土壌が、良質な梅の栽培に適している。

みなべの土壌と梅栽培
  • ウメの生育に適した土壌は、微酸性(6.0pH)の状態。
    土壌が酸性化すると、生育が悪くなり、
    極端な酸性土壌になると、樹が枯死することがある。
  • ウメの根は、酸素要求度が高く、通気性の良い土壌を好む。
  • ウメは植物の3大栄養素、窒素・リン酸・カリの中で
    カリを多く吸収する特長がある。
    また、カルシウム・マンガン・ホウ素などの成分も、
    葉や果実の生育に、重要な役割をはたしている。
  • ウメの生育には、土壌水分30~40%が最適。
    過剰な水分は、かえって生育の妨げになるので、
    水はけが良く、保水力のある土壌が必要。

このページは南部川村の許可のもと「南部川村うめ振興館常設展示図録」をもとに作成しました

 

みなべの地質と瓜谷累層

みなべの大部分は、今から6000万年前の新世代初期にできた
音無川(おとなしがわ)層群に含まれている。
陸地から削り取られた泥が、海に運ばれて堆積(たいせき)した地層。
それが、その後の激しい造山運動によって曲げられ、
寸断された状態で隆起し、今の姿になった。

みなべの地質

南部梅林を始めとする、梅栽培の盛んな地域の地層は、この音無川層群の中の
瓜谷累層(うりだにるいそう)にあたり、黒色をした泥岩層で崩れやすいのが特徴だ。

泥岩が風化した土壌

泥岩が風化した土壌

(良質な梅の栽培地域の土壌)

瓜谷累層の泥岩
瓜谷累層の泥岩
泥岩が風化した土壌

また、この地層からは盆石(ぼんせき)として有名な「瓜溪石(うりだにいし)」が数多く産出している。

瓜溪石(うりだにいし)とは、瓜谷累層中にノジュールとして産する主に炭酸カルシウムからできた岩石。

ノジュール(団魂)とは、地層の中の鉱物成分が分離したり溶け出してできた魂で、まわりの堆積岩より硬い。

盆石として有名な「瓜溪石(うりだにいし)」

瓜溪石は、今から約6000万年前の新生代初め、
海底に堆積していた泥岩層である「瓜溪層」とよばれる地域から産する石だ。

地中から掘り出されたときは、石の表面に黒色の泥岩が付着していたり、
風化のために赤褐色になった土で覆われているが、
愛好家の手にかかるとたちまち見事な盆石(ぼんせき)になる。

深山幽谷を想う山水景と、変化にとむ皺(しわ)に加えて、
なめらかな石の肌が特筆される。

紀伊続風土記には「瀑布石」、紀伊名所図会には「盆石」として
紹介されるほど、古来より産出したものと思われるが、
発掘の歴史はわりあい新しく、
盆石として価値を認められたのは、
天保年間(1830年代)で、
樵夫(きこり)の手によって発見された。

江戸時代には、田辺藩が石番を置き、
みだりに採掘することを禁じたこともあり、
この禁が解かれたのは、
西南戦争(明治10年)の頃だと言われている。

みなべ町立うめ振興館に展示された瓜溪石。幅120cm高さ45cm奥行き82cmの見事な盆石だ。

このページは南部川村の許可のもと「南部川村うめ振興館常設展示図録」をもとに作成しました

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