なんでも梅学
仁徳朝に「咲くやこの花」
『古今和歌集・仮名序』
その一節に、この短歌がある
なんでも梅学
梅のプロフィール
ALL ABOUT「梅」
図解版 花から果実への発達
梅の花を解剖してみよう
なんでも梅学
いろいろな梅の花
「梅」の品種は300種以上あると言われる
梅の開花前線@日本列島
なんでも梅学
梅雨と梅の関係
梅雨は、梅にとって恵みの雨。
この季節に雨が降ることで、梅の実は大きく膨らんでいく。
ところで「梅雨」はなぜ「梅の雨」と書くのだろう?
なんでも梅学
うなぎと梅干し
一緒に食べてはいけないと言われる「食べ合わせ」。
「うなぎと梅干は食べ合わせが悪い」と言われてきた。
さて、本当にこの説は正しいのだろうか?
なんでも梅学
烏梅(うばい)
「烏梅」ってなに?名前の由来
どんな味?なにに効くの?
烏梅について、ありったけ。
なんでも梅学
ことわざ・言い伝え
「梅」にまつわることわざや
言い伝えは、たくさんあります。
あなたは、いくつ知っていますか?
なんでも梅学
南高梅のルーツ
農園のある和歌山県みなべ町で生まれた「南高梅」は、
現在では押しも押されぬ「梅」の一流ブランド品。
その誕生には、一体どんなドラマが隠されているのかな?
なんでも梅学
「古い梅干し」大集合
日本人と梅干しの由来・梅にまつわる年表
梅干が一般家庭の食卓に並ぶようになったのは江戸時代。
なんでも梅学
美術の中の「梅」
日本の伝統色にいきづく梅
こんなにあるよ!梅の紋章(家紋)
仁徳朝に「咲くやこの花」
日本最古の漢詩集『懐風藻』(天平勝宝3年(751)成立)よりも、文献として成立した年代は遅れるが、 詩の詠まれた年代は『懐風藻』より古いとされているのが『古今和歌集・仮名序』。
その一節に、この短歌がある。
「難波津(なにはづ)に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」
王仁(わに)『古今集仮名序』
【通釈】難波津に、咲いたよこの花が。
冬の間は籠っていて、
今はもう春になったので、咲いたよこの花が。
- 難波津・・難波の港。難波は大阪市及びその付近の古称。
- この花・・「梅の花」を意味する。古今集仮名序に添えられた古注では、
編者の紀貫之が「梅の花を言ふなるべし」と注釈している。
【由来】仁徳天皇が皇位につかれた事を喜んで、渡来した百済(くだら)の王仁(わに)博士が、 梅花にこの和歌を添えて、奉ったと伝えられている。
「難波津の歌は、帝の御初め也。おほさざきの帝(※)の難波津にて皇子ときこえける時、 東宮をたがひに譲りて、位につき給はで、三年になりにければ、王仁といふ人のいぶかり思ひてよみて奉りける歌也・・・」(古今集仮名序より)
※「おほさざきの帝」とは、仁徳天皇(在位313~399)のこと。
仁徳天皇が最初に和歌(短歌)を詠まれたのが難波高津宮で、それが和歌の始まりだという。
仁徳天皇が皇位につくまで、数年間は皇位が決まらず、民も荒れたが、
仁徳天皇が難波に都を定め、農業の推奨、開拓事業などの便をはかり、大和朝廷の最盛期となった。
【王仁】往古王仁(わに)。古事記には和邇吉師(わにきし)とある。
応神十六年、百済(くだら)より来朝。『論語』『千字文』を伝来した渡来人。
日本に漢字を伝えたと云われている。
参考文献:「梅一・ものと人間の文化史」有岡利幸
『魏志倭人伝』に記されていた梅
日本の弥生(やよい)時代の様子を、中国人が観察記録した『魏志倭人伝』には、
倭国(現在の日本)に生息する植物(樹木・草類)が記されている。
学者たちはこの「植物名」を、さまざまに解釈してきた。
『松と日本人』(人文書院・1993年)の著者、 有岡氏は「その木にウメ、スモモ、クスノキ有り。」と解読している。
古代から中国は、近隣の国を評価する場合、その国に中国文化がどの程度浸透しているかにより、野蛮であるかどうかを判断していた。
当時の倭には「松」が生育していたのにかかわらず、『魏志倭人伝』には、何故か「松」が記載されていない。
このことから『魏志倭人伝』は、中国における名木に焦点をあてて記載したものと考えられる。
弥生時代後半、人々が生活する集落の周辺には、楠(くすのき)の巨木が生え、畑や山麓には、梅・桃・杏が植えられ、水田稲作農業を営む集落周辺では、昭和時代初期に見られた日本の原風景ともよべる風景が展開していたと想像される。
卑弥呼(ひみこ)も、梅の花を見たのではなかろうか。
(画像は『魏志倭人伝』の一部。5行目に「其木有・・・・」とある。)
『魏志倭人伝 (ぎしわじんでん)』
中国の歴史書『三国志』の中の、魏の歴史が書かれた『魏書』(通称『魏志』)の東夷伝に収められている倭人の条の一般に知られる名。古代日本の状況について、もっとも古い記述がある。
作者は西晋の陳寿。全文で1988文字。原本は散逸しており、写本のみが残る。
大和王権以前の日本(弥生時代・三世紀)の様子が書かれている。
邪馬台国(やまたいこく)とその女王卑弥呼(ひみこ)について記されており、当時の倭(日本)が、小国により構成されている様子や、生活様式、その小国の位置・官名についての記述が見られる。
小国の位置については、様々な解釈を可能とする記述がなされており、邪馬台国の位置論争の原因となっている。
また、本書により当時の倭人の風習や動植物の様子が、ある程度判明しており、弥生時代後期の日本を知る第一級史料とされている。
参考文献:「梅一・ものと人間の文化史」有岡利幸
弥生時代の遺跡から梅の遺物が出土
日本各地の弥生時代の遺跡から、梅の自然木の断片・梅実の核(種)が発掘された。
- 弥生時代前期山口県平生町 岩田遺跡(モモと共に)
- 弥生時代前期大阪府八尾市 亀井遺跡(梅の自然木の断片)
- 弥生時代前期山口県綾木郷 台地遺跡
- 弥生時代中期山口県熊毛町 岡山遺跡
- 弥生時代中期京都府綾部市 青野遺跡
- 弥生時代後期奈良県榛原市 高塚遺跡(モモ・クリと共に)
- 弥生時代後期東京都板橋区 前川泥炭層(梅の破片2個)
- 古墳時代前期山口県平生町 吹越遺跡
- 古墳時代前期奈良県桜井市 大西遺跡
- 古墳時代前期愛知県豊田市 伊布遺跡
- 古墳時代前期石川県加賀市 猫橋遺跡
弥生時代前期~古墳時代の梅の遺物出土遺跡を県別に見ると、 山口県・大阪府・奈良県・京都府・石川県・東京都である。
梅が中国大陸から渡来し、日本での栽培が普及していく様子は、 稲作が広まってゆく様相とほぼ同じとみられている。
原産地(中国長江流域)が夏湿気候帯に属していることから、 梅は、日本の風土によく適応し、栽培が普及していった。
それ以前の縄文時代の遺跡から、梅の遺物は発掘されていないことから、 梅は、弥生時代に渡来したと考えられる。
参考文献:「梅一・ものと人間の文化史」有岡利幸