「古い梅干し」全員集合!
「古い梅干し」というと、あなたはどんな梅干しを思い浮かべますか?
「???」「塩がいっぱい噴いて・・」「シワシワでカチカチ?」
想像はつくものの、実際見たことがある方は、あまりいないかもしれません。
今日は我が「みなべ町」に伝わる古い梅干しを実際に見てみましょう!
日本最古の薬草漬け梅干し
- 幕末「古方薬議(こほうやくぎ)」に
烏梅(うばい)の効用について
記載される。

江戸末期の梅干し
- 文政10年田辺藩が梅干業を統制下におき
藩に任命された梅商人が
江戸へ梅を送る。 - 天保年間埴田(はねた・現みなべ町)
の浜口松次郎が、
販売用梅干の製造を始める。

明治初期の梅干し
- 明治初め微兵令(ちょうへいれい)が発布。
施行とともに軍需用に
梅干の需要がのびる。 - 明治10年コレラが大流行し、
梅干しの需要がのびる。 - 明治12年内本徳松が
晩稲(おしね・現みなべ町)に
購入した山林に良種の種を発見し、
実生増殖する。

明治中期の梅干し
- 明治19年内本幸二郎、内中為七が、
晩稲地区を開墾し、梅を植える。
(梅畑経営の始まり) - 明治25年和歌山県日高郡・有田郡で
梅栽培が一般に普及する。

明治後期の梅干し
- 明治37年二月に日露戦争が始まり、
軍需品として梅干の需要がのびる。
「日の丸弁当」は、この頃生まれ
た言葉で、梅干が庶民に愛されて
いた様子が伺える。 - 明治43年尋常(じんじょう)小学校の
国語の教科書に「梅干の歌」が
記載される。

大正の梅干し
- 大正14年梅肉エキスの効能が記載された
「赤本」が発行される。

昭和初期の梅干し
- 昭和6年小山貞一(こやまていいち)が
高田貞楠より穂木を譲り受け、
南高梅の栽培の第一歩となる。

昭和中期の梅干し
- 昭和37年酒税法(しゅぜいほう)改正で、
果実酒が自家製造出来ることになり、
梅酒用青梅の需要が急増。 - 昭和40年最優良品種に決定した
高田梅が「南高(なんこう)」
として農林省に種苗登録される。

昭和後期の梅干し
- 昭和48年南部川村に
全国初の「うめ課」が設置される。 - 昭和52年味梅干(調味梅干)の製造開始。

申年(さるどし)の梅
960年の申年に都で悪疫が流行った時、病に臥した村上天皇が梅干を食べて回復したといわれ、以来「申年の梅は薬になる」と伝えられてきた。
特にこの年が庚申(かのえさる)だったことから、60年に一度巡ってくる庚申の梅が一層珍重されるようになった。

現存する日本最古の医学書「医心方(いしんほう)」(平安中期・984年著)にも、
梅干しの薬効が記されています。昔から梅干しは「薬」として使われてきたのです。
梅に託された人々の健康への願いが、千年以上の歳月を経て
現代に語り継がれてきたのです。みなべに残る古い梅干しの一粒一粒にも、
こうした先人達の思いが込められていることでしょう。
このページは南部川村の許可のもと「南部川村うめ振興館常設展示図録」をもとに作成しました